ジャメヴ(T)

ある朝、彼氏が知らない人になっていた。彼氏に向かって、あなたは誰?と尋ねると、何言ってんだこいつ?とでも言いたげな顔をして冷蔵庫を漁り始めた。その男は図々しくも私が買った麦茶を一気に飲みほすと、俺、弘樹ってんだ。よろしくな。と言ってへらへらと笑った。弘樹は確かに私の彼氏の名前だが、この男では無い。そもそも、顔も体型も声も何から何まで全部違うのだ。間違いない。不審者だ。一先ず本物の彼氏である弘樹に電話をかけることにした。通話をかけると、目の前の不審者のスマホが鳴った。何?記憶喪失ごっこ?男は今度は、私が買ったナイススティックを食べながら私の部屋のテレビでニュースを見始めた。本物の弘樹は菓子パンなんか食べないし、ニュースを見るような立派な人間ではなかった筈。やっぱり、私の頭がおかしくなったという訳では無さそうだ。弘樹と私の共通の友人の美咲を部屋に呼んだ。美咲は男を弘樹君と呼び親しげに話している。ねえ、美咲、その男って私の彼氏じゃないよね?美咲はキョトンとした顔で私を見つめ、え?別れたってこと?それは初耳だけど。と言った。そうじゃなくて、私の彼氏の弘樹はもっと短髪で、いつもメガネかけてたでしょ。そう言うと、美咲はいや、私の知ってる限りでは弘樹はずっとこんな感じだったけど・・・。と困惑した表情で呟いた。私が美咲と話している間、弘樹は真剣な顔をしてスマホを見つめていた。少しして弘樹は、なんかこれっぽいな。と言ってスマホの画面を私たちに見せた。そこには“ジャメヴ”という文字が書かれていた。ジャメヴとはデジャヴの反対で、見慣れている筈のものや人を初めて見たかのように錯覚してしまう現象らしい。どうしても納得はいかなかったが、ひとまず今日のところはジャメヴという事にして、一旦二人には家に帰ってもらった。考えて考えて考えた末に、スマホで過去に撮ったツーショットを見返すという方法を思いついた。あまりにも気づくのが遅すぎた。もしかしたら本当に私の頭の方がおかしくなってしまっているのかもしれない。写真のフォルダを開くと、弘樹の写真は全て消えていた。弘樹と一緒に行った水族館で撮ったイルカの写真はあるのに、カニとカメの顔出しパネルで二人で撮った写真は消えている。世界がおかしくなったのか、自分がおかしくなったのか、こういう場合は大抵自分がおかしくなっているというのが現実なのだろう。とは言え、そう簡単には信じられず、私は思考を整理するべく外に出て歩くことにした。見慣れた街、見覚えのある人、見慣れた空・・・。駅前を歩いている時、ベンチに座って俯き、俺は誰だ?ここはどこだ?とぶつぶつ呟いている男性を見かけた。その男は初めて見る筈なのに、何故かとてつもない“懐かしさ”をおぼえた。一瞬話しかけようと思ったけれど、知らない人にいきなり話しかける勇気も無くて、スルーして家に帰ることにした。帰ったら弘樹を名乗る知らない男が部屋に居て、ほら、お前俺のチャーハン好きだっただろ?と言ってチャーハンを作ってくれた。チャーハンは確かに美味しかったけど、でもやっぱり初めて食べる味がした。