大人になる(T)

不自然なほど静かな部屋で、私はスリープ状態のスマホの画面を眺めていた。時間が経つにつれて、頭の両側を誰かに強く押されていくような鈍い痛みがどんどん強くなっていく。早まっていく鼓動を抑えようとして大きく息を吸い込み、手のひらの付け根で胸の上のあたりを擦った。日付が変わって10分が過ぎても私のスマホはうんともすんとも言わない。20歳になって最初に分かった事は、私には親友と呼べるほどの友達は一人もいないという事だった。今年私が誕生日を祝ってあげた人は何人いるだろう。一人一人の顔と渡したプレゼントを思い出しながら、指を折って数えてみる。「あかり、サボンのスクラブ。千春は・・・ピエールエルメのマカロン。結衣・・・お酒。のどかは・・・なんだっけ」薬指を折った所で数えるのをやめて、両腕をぐったりと脇に下ろした。「ああ、もういいや。・・・もう、どうでもいい」。はぁ、と大きなため息をついて私は立ち上がり、冷蔵庫に入っていたショートケーキを取り出した。お皿に乗せ換えロウソクを立てたところで、あ。と気が付く。そういえば、私の家にはライターもマッチも無いんだった。台所にケーキを持って行って、ロウソクを抜いてコンロで火をつける。部屋の電気を消してテーブルに向かおうとしたら、私はコードに足を引っかけて転びそうになってしまった。慣性の法則によりケーキはお皿を離れ、ぼとりと床に落ちて崩れた。私はしばらくの間、目を閉じてきつく歯を食いしばり、ただ泣かないように耐えることしかできなかった。

翌朝、スマホを開くと母からLINEが届いていた。「誕生日おめでとう!ところで、コロナのワクチンは、危険なので、絶対に接種しては、いけません!DNAが、書き換えられて、別の人に、なってしまうとの、ことです。絶対に、接種しては、いけません!人間には、自然治癒能力が、備わっています!」私はスマホを潰れるほど強く握りしめ、「ふざけんな!」と叫びながら思いっ切り布団に叩きつけた。母が私の事を心配して言ってくれたんだという事は分かっていたけれど、でも、どうしようもなかった。特別な日には何か特別な事が起こるんじゃないかって心のどこかで思ってしまっていたけど、そういう根拠のない子どもじみた感覚は捨てる時なのかもしれない。成人して大人になるというのは、まあつまり、そういう事なんだろうな。

コーヒーを飲みながら部屋で読書をしていたら、気づいた時には外は少し暗くなっていた。本を読み終えてテーブルに置くと、それまでどこかに隠れていた不安や孤独感が急に姿を現し始めた。私はそれらから逃げる為に急いで部屋を飛び出し、青信号の点滅する横断歩道を渡るような速さで最寄り駅へ向かった。人気アニメのラッピングをした風情のかけらも無い電車がのんきに走ってきて、私はベンチから立ち上がる。いつもならなるべく人の少ない車両に移動するけど、今日はそうしなかった。都留の山の緑で彩られた鮮やかな車窓を、無感情のままに見つめる。ずっと同じような景色が流れていく。山、家、畑、川、道路、山・・・。この電車に乗るといつも、同じところをぐるぐると回り続けているような錯覚に陥る。もっと東京が近かったらよかったのにな。それか、もっと電車が早く走ってくれればいいのに。

そんな私の願いを嘲るように、電車は二分遅れで大月に到着した。

大月と高尾で乗り換えをし、八王子で降りた。帰宅を始めた人々で混みあってはいるけれど、前に来た時よりも人は少ない気がする。そういえば今って、緊急事態宣言が出ているんだっけ。

駅の周辺をぶらぶら歩く。道の端で立ち止まってスマホを見ているおじさんに話しかけて「実は私、今日誕生日なんですよ」と言ったらどんな反応をされるだろう。怪訝な顔をしながらも「おめでとう」くらいは言ってくれるだろうか。妄想をしただけで心臓がバクバクして、急激に体温が上昇するのを感じた。私は心の中を整理する為に立ち止まってフェンスに寄りかかり、スマホを見るふりして地面を見つめた。話しかけるにしても、まずどうやって声をかければ良いのだろう。舌で頬の内側を押しながら適切な言葉を探してみるけど、いいセリフは何も浮かんでこなかった。歩き続けて、私は街のはずれの方まで来てしまったようだった。人通りのそれほど多くない静かな道で、二十代半ばくらいの男が私を後ろから追い越し、声をかけてきた。「お姉さん、今って暇してます?」失礼な男だ。私は立ち止まらずに返事をする。「そうですけど、だったら何ですか」私がそう言うと、男はヘラヘラしながら「メシ、行きません?奢りますよ」と言ってきたので、私は「是非、お願いします」と答えた。「え?」「ご飯、奢ってくれるんですよね?」彼はキョトンとしている。「も、勿論勿論!何が食べたいっすか?」「なんでもいいですよ。サイゼでもはなまるうどんでも」「どうしよう。そうだな・・・じゃあ、カラオケでも行きましょうか。お姉さん、なんか鬱憤溜まってそうだし」「カラオケ・・・いいですね。お酒も飲めるし」「決まりっすね。行きましょう!」

人生で初めてされたナンパは、涙が出そうになるほど嬉しかった。

私たちは結局朝まで飲んで、フラフラになりながら店を出た。「ねえ、八王子って何があるの?」という私の問いに、彼は「あっちの方はちょっと大人向けのお店がありますよ」と答える。「へー。八王子ってなんでもあるんだね」「そりゃ、大都会八王子ですから。・・・あ、ちょっと待っててください」と言って、彼は私を置いてコンビニに入っていった。ああ、なるほど、そっか。20歳になってすぐお酒を飲んで、そしたらお次はセックスか。なんて分かりやすい成人の儀式なんだろう。まるでどこかの部族みたいだな。なんてぼんやり考えていると、ナンパ男がコンビニから出てきた。「何買ったの?」私が訊ねると、彼は「内緒っす」と答えた。

私と彼は、早朝の八王子を、何も言わず、ただゆっくりと歩いた。急に、ナンパ師は何もないところで、「この辺でいいかな」と言って、よっこいしょ、と腰を下ろした。「え・・・ここ??」私がびっくりしていると、「あ、ほら。ケーキ買ったから、一緒に食べません?」と彼は言う。「うわー、ごめん。めっちゃ勘違いしてた」と私は言って、その直後に激しく後悔した。はじめ、彼は「と言うと・・・・?」と、意味を理解していない様子だったが、すぐに「あっ、なるほど」と言ってにやりと笑った。彼が私の勘違いを見抜いた事を悟って、私は「大人になれると思ってちょっと期待したのになぁ」と強がって見せた。すると彼は「セックスしたくらいじゃ大人になんかなれませんよ」と優しく、教え子に諭すような口調で言った。「じゃあどうしたら大人になれるの?」「わかんないですけど、・・・多分、周りの人に大人だと思われる人、大人として扱われる人が大人なんじゃないっすか?」私の問いに、彼はケーキの容器を開けながら答えた。「ナンパ師さん・・・言う事が大人だね。ナンパ師なのに」「僕なんかまだ子どもっすよ。路上でコンビニのケーキ食おうとしてるし」「ってことは、私の事も子ども扱いしてるって事?」「まあ、そうっすね」私はナンパ師を殴った。ちょっと強く殴りすぎたかもしれない。「痛いっす。・・・あ、この辺良さげですね」私とナンパ師は段差に腰を下ろしてケーキを食べた。「うま・・・コンビニのケーキってこんなに美味しかったっけ」「コンビニも案外やるでしょ?」「うん。やるね」

早朝に路上でケーキを食べる二人の若者。通行人の目にはどう映っているのだろう。非常識な頭の悪いカップルだと思われているだろうか。私が今していることは、後になって思い返したら恥ずかしい事なのかもしれない。けど、今この時、謎のナンパ師の男と八王子の地べたで食べるケーキの味を味わうことの大切さに比べたら、何もかもがどうでもいいと思えた。あまりにも穏やかで温かみのある時間が、ぼんやりとした慈しみを持って、私たちの間をゆっくりと流れていった。

「ところで、なんか欲しいものとかあるんすか?」ナンパ師の不意な質問に、私は間髪入れずに「親友」と答えた。「親友、いないんですか?一人くらいいるでしょう」勝手に決めつけないで欲しい。「いると思ってたんだけど、誰も誕生日におめでとうって言ってくれなくてさ。それって親友って言えるのかなって」「じゃあ、誕生日におめでとうって言ってくれる人が親友なんですか?」随分と雑な二段論法だ、と思った。でも一応間違いではないので、私は「多分」と、中途半端に肯定した。すると彼は「なるほど。じゃあ、一年後に親友になりましょう」と言ってきた。「は?」「来年の昨日、また八王子に来てください。大きな花束持って待ってますから」「え?それ、本気で言ってる?」「もちろん。本気です」得意げな顔をするナンパ師を見て、私は笑いそうになってしまった。親友になりましょうって、それがナンパ師の言う事なのか。「ナンパ師さんって、本当にナンパ師?ヤブナンパ師でしょ」「八王子のナンパ師はマイルドなんですよ。ナンパにも地域差がありますからね」「八王子市民は優しいってこと?」「ええ。まあ、東京の中では断トツで優しいですね」「なんで?」私が訊くと、彼は困惑の表情を浮かべて「え~なんでって・・・」と言葉に詰まっていたが、やがて遠い目をしながら「自然が豊かで、街自体が穏やかですから、穏やかな人が多いんですよ。多分ですけど。」と言った。「適当な事言うなよ」と言って私が殴ると、彼は「痛いっす」と言いながら走って逃げた。

 

始発前の八王子駅には人がまばらにいたけれど、話をしているのは広い駅舎の中で私たちだけだった。どの人も早足に歩き、水に湿った靴底はキュッキュという女児用のサンダルのような音を鳴らしていた。「あ、そろそろ始発出るかな。それじゃ、お見送り、ありがとうね」「いえいえ、とんでもないです」「また一年後。絶対来るから、花束持って待っててよ」「任せてください」彼はお腹の前で拳を握り、親指を立てた。陽気な女子高生とかがよくやるやつだ。と思ったけどそれは敢えて口には出さず、彼に合わせて私も親指を立てた。「それで、私がちゃんと大人になってたら、今度こそ大人扱いしてよ?」と、私は言って笑った。「そうですね。そしたら、ちょっとハイソなバーにでも連れていきますよ」「やった」「じゃあ、一年後の、〇月〇日にまた八王子で」「いや、昨日だから〇日だよ」「〇日!場所は改札?それともあの・・・」「あの最初に会った道路にしよ。自販機のところ」「了解。時間はどうしましょう」「7時くらいだったかな」「そうですね。じゃあ、19時で」「わかった!それじゃあ」「はい。気をつけて帰ってくださいね」「ありがとう」

 

彼に手を振って別れ、始発電車に乗り込んだ。LINEを開いて母に「心配してくれてありがとう。気をつけるね」と返信し、窓の外の景色を撮って母に送る。少しして、「綺麗な、景色!」と短い返信がきた。母の相変わらずの句点の下手さが、この時は何故か愛しく思えた。私は外の景色をしばらくの間見つめて、それから「綺麗でしょ」と打って母に送った。目を閉じると昨日から今日にかけての出来事が自然と思い出され、私は彼の言っていた事のいくつかをスマホのメモ帳に書き出した。一年後の昨日までに、素敵な大人の女性になろう。それだけを考えながら、私は緑色の車窓を眺め続けていた。